株式会社長野工務店 横浜市 土木工事・舗装工事・上下水道工事・防食工事・太陽光事業・工事測量 求人募集

長野工務店 百年史

NAGANO CORPORATION

百年の歩み

HISTORY

 
 
長野家一族 大正15年頃
 
戸塚区高島橋掛替工事 昭和2年頃
 

01 創業期(1914年~1945年)

株式会社長野工務店(以後、当社と呼ぶ)の創業者長野福治は、明治24年(1891年)6月20日、神奈川県鎌倉郡長尾村大字小雀(後の大正村、現在の横浜市戸塚区)に生まれた。長野家は代々の名主で大地主であった。福治は大正村の村会議員を務め、近衛兵にも任命されるなど、地元の名士でもあった。

 大正村は水田と畑が広がる農業専業地帯であった。当時、一般の道路はもちろんの事、現在付近を走る国道1号線や藤沢街道も舗装されておらず砂利が敷かれていた状態で、大雨が降ると砂利が崩れて補修する必要があった。役所は地元の有力者である長野家に砂利の納入を依頼した。加えて、近辺の水田への水引などの工事も長野家の手配で行われていた。

 大正3年4月1日、福治は神奈川県への砂利納入とそれを使った道路建設を業とする長野組を創業。この年を当社は創業の年としている。
創業当初は、近在の20人程度を労務として雇い、福治自らも作業に加わって働いていたといわれている。濱野司郎の小学生の頃(昭和10年頃)の記憶では、自宅付近にトロッコ線路があり、朝の3時頃から労務がやって来てトロッコで砂利を運んでいたという。
神奈川県や横浜市の請負業者として、仕事の範囲は道路から河川、橋梁へと拡がっていった。戸塚の土建業者で横浜市発注の橋梁を手掛けたのは長野組がはじめてと言われており、昭和2年、柏尾川の高嶋橋の架け替え工事を担当した。

 当社社主長野敏三は、大正6年8月10日に福治の長男として生まれた。早稲田高等工学校を卒業して、昭和14年に鉄道省に入省。技術の方面に進んだのは、将来家業を継ぐ心構えがあったのであろう。結婚して長男昭が誕生した後、徴兵により軍人として満州に赴いた。技術屋だったので、盧溝橋の飛行場建設に携わさせられることとなり、前線に出ることはなかった。終戦の時は、北九州の飛行場建設現場で働いていた。

 

02 戦後復興期(1946年~1970年)

戦後の昭和21年4月1日、長野組は名称を長野工務店と改め、新たな出発を期した。翌年の昭和22年、戦地から帰還した敏三が入社して事業主代行に就任。福治は一線を退いた。昭和24年には、建設業を登録制とする建設業法が制定され、当社も特定建設業者として登録を行い、本格的な建設業者としての態様を整えた。

 当時は戦後焼け跡からの復興期であり、建設需要は盛んであった。当社は戦前の長野組からの付き合いで県や市発注の土木工事が主たる仕事であったが、建築工事も手掛けるようになっていた。会社経営は敏三の兄弟が中心となって切り盛りし、次男精三は営業を担当して、役所での入札などで活躍した。四男の長野政五郎は現場での監督に当たった。三男の濱野司郎は昭和39年入社し、後に当社3代目社長に就任した。

 濱野は、早稲田大学からの学徒出陣で陸軍主計官として戦地に赴いたが、戦後、敏三の紹介で運輸省施設局に入省した。しかし、間もなく退官して桑島建設に入社。その後、独立して三和工務店を経営し、沼津市営グラウンドや草薙野球場の建設に関わった。37歳の時、当時営業の中心であった兄精三の助っ人として当社に入社した。

 昭和39年の東京オリンピック開催を挟んで日本の高度経済成長が進行する中で、当社は、公共インフラ整備の基礎部分である土木工事に業容を特化していくことになる。

 
 
 
昭和39年当時の本社
昭和42年 湘南護岸整備(現在の鎌倉市)
 
 
昭和53年 都市計画道路環状3号線街路整備工事
すずかけ橋
 
昭和53年 笹川良一(財)日本消防協会会長(当時)と長野敏三
 

03 発展期(1971年~2003年)

株式会社長野工務店(以後、当社と呼ぶ)の創業者長野福治は、明治24年(1891年)6月20日 昭和46年11月19日、当社は資本金600万円で株式会社に改組。株式会社長野工務店となり、敏三が代表取締役社長に就任した。

 株式会社立ち上げ当時は、高度経済成長も終わりを告げようとしていた時期で、昭和48年末には第一次オイルショックが到来して長い不況期が訪れた。資金繰りが大変で、昭をはじめ、敏三の息子たちまで駆り出されて、家族総出で仕事が行われたと言う。 幸い、元々公共事業を得意としていた当社は、不況対策として行われた公共事業、中でも横浜市発注の漏水・切回し年間維持工事を受注することができ、この苦境を乗り切ることができた。日本道路公団の横浜新道や藤沢バイパスの擁壁工事などを手掛けたのもこの頃のことである。

 1970年代は、昭和47年に下水道事業センター(日本下水道事業団の前身)が設置されるなど、全国的に下水道が整備普及し始めた時期である。当社は昭和49年に横浜市排水設備指定店となり、横浜市の下水道インフラ整備の一翼を担うこととなった。

 1980年代半ばになるとバブル景気が訪れ、仕事量はうなぎ上りに増えていった。売り上げも40億円を超え、社員数もピーク時には40人にまで増えた。しかし、この時期、当社は公共事業それも道路整備や下水道整備などの土木工事以外には手を出さず、敢えてそれまでの事業スタイルを守ることに徹した。そのことは、やがて訪れたバブル崩壊の時に功を奏し、多くの同業者が傾いていく中で、それまで勝ち得た信用と手堅さによって生き残ることができたのである。

 敏三は、本業の他に、地域への感謝を込めた貢献にも意欲的に取り組んだ。その中でも消防団での活動には熱心で、温厚な性格で人望もあったため、押されて横浜市消防団長会会長、財団法人神奈川県消防協会会長、財団法人日本消防協会副会長に就任している。

 

04 未来に向けて(2004年~)

 平成16年10月20日、第5代目社長として、長野昭の長男長野真行が代表取締役に就任した。新社長が就任してまず取り組んだことは、管理部門、営業部門、工事部門の一体化であった。それぞれ別棟になっていた部門を一つ屋根の下に移した。これは、仕事の内容を一体化したというのではなく、お互いが見えるように「一緒にやっているんだな」という意識を高めることが目的であった。

 また、公共インフラが一通り整備され、公共事業が減少していく時代背景を見据えて、今後は民間の宅地造成工事、駐車場新設、擁壁修理などにも取り組んでいくこととした。自社でも土地を購入して土地造成を行うことも始めている。

 更に、まったく新しい事業として、一定の広さの土地に太陽光パネルを多数配置して発電を行い、発生した電気を電力会社に売電する事業を始めている。自社所有の土地の有効活用とともに、今後の新エネルギー事情を予測した一種の挑戦である。

 この様な新たな挑戦を試みると同時に、新社長は信念として掲げる「温故知新」という言葉が示すように、100年続いてきた長野工務店の伝統である信義と信用を重んじることを第一とし、これからも守り続けていくこととしている。 社長が掲げるもう一つの信念「先義後利」(先に義理を立てれば、利益は後からついてくる)もそのことを示しており、長野工務店を育ててくれた地域への感謝と貢献を今後も忘れることなく、地域とともに会社が発展していくことが重要であるとしている。

 
 
 
平成26年4月1日 全社員